昔はこうだった、ああだったというと、歳をとったのかなとも思いますが、
先日もある人と会話をする中で、「昔の方が、おおらかだったよね」という話になった。
何がおおらかだったのかというと、
小学生の頃、クラス(学校)にかならず訳ありの同級生(上・下級生)がいた。
今にして思えば、いわゆる知的障がいか発達障がいということだと思う。
いじめなっかったかというと、少なからずいじめの対象にはなっていた。
しかし、現在のような悲惨ないじめにまでエスカレ-トすることはまづなかったように思う。
子どもなので、異質な存在に対してからかうことは確かにあった。
けれど、排除をするとか拒否をするとかということはなかった。
今にして思えば、からかいながらも集団の一員として迎え入れていたように思う。
そのことを指して、「昔はおおらかだったよね」という話になった。
昔はおおらかだったよねというかぎり、今はおおらかではなくなったよねという意味が互いの共通認識としてあるということ。
先日もある方から相談を受けた。
取引先の企業で働く人からその人は相談というか、ぐちを聞いたらしい。
曰く
「障がいがあるらしい従業員がいて、どこの部署でも適応できず、点々と移動して今は一人で倉庫作業をしている。
自分はそういう処遇がどうかと考えているが、上司がまったく取り合おうとしない。
どうしたらいいだろうか?」
と間接的にアドバイスを求められた。
似たような話は過去にも聞いたことがある。
してみると、世間ではこういう話は多いんだろうなと容易に想像がつく。
効率主義・成果主義あまり言葉が思い浮かんではこないが、
どうしてこういう社会になったのかなと思う。
訴訟社会・デイベ-トに象徴されるように、社会は確実に攻撃性が高まってきているように感じる。
攻撃性が高まれば、おおらかさは当然失われていく。
思い悩む日々の中で、スタッフさんの研修報告を読んでいて、
これかなと感じさせられたことがあるので、結びとして紹介。
「生きづらさを抱えて生きてきた(いる)人に対するリスペクトが大切」
資料の中にこう書いてあった。
たんなる言葉としてではなく、「言霊として一人一人が実践できれば、おおらかな社会が実現がするのでは」
と思った。